理 念
私達、株式会社左官花嶋は未来の左官のあり方を真剣に考え安全で快適な住宅環境を提供することによりお客様と共に幸せや感動を共有できる事を目標にしています。
「日本の歴史と文化を現代へ」を合い言葉に、左官職人による手仕事の素晴らしさや可能性を世の中に広めていきます。
良い仕事=良い職場
月に1度自社で職人会議を開いています。現場環境のトラブル報告やクレーム、進捗状況など職人同士意見を出し合い同じ価値観を持つことで効率の良い現場環境になると考えています。良い仕事は良い職場からと考えています。
従業員心得
お客様に喜ばれる事を最上の目標とし日々の仕事は多くお客様のお陰で自分達の生活が成り立っているという“感謝“の気持ちを忘れること無く、日々仕事に取り組むこと。それが全従業員及びその家族の幸せにつながっていく。
「与えた恩は忘れても、受けた御恩はわすれるな」
左官職人 花嶋利夫
花嶋利夫 昭和22年6月14日、浜松市三方原町和菓子屋の四男として生まれた。子どものころの毎日の日課は和菓子店の手伝いから始まり8人兄弟の大家族の中で育ちました。
昭和37年中学を卒業後、和菓子職人の父の勧めで手に職をつける事を夢見て左官職人を目指すことになり現.中区三組町の㈲松嶋左官(松嶋彦次)の見習いとして住み込みをさせてもらいながら厳しい修行が始まりました。3年間は親方や先輩の仕事の準備、材料作りが主な仕事でした。早朝からリヤカーを自転車に連結し左官道具、材料を一杯にのせて2時間かけて現場へ向かうこともありました。今では想像のつかない時代ですがこれが当時の実状でした。もちろん電動工具は無く何をするにも人力での作業は想像を超える大変さでしたが後々良い経験をさせてもらった ことに気が付くことになりました。
弟子入りから4年目の頃親方から塗り付け鏝を一丁渡され土壁を塗るように言われその時は嬉しさの半面、緊張しながら仕事をしたことを覚えています。少しでも親方の気持ちに答えようと月に2日の休日を壁塗り練習にあて、中塗りの訓練を繰り返し精度を求めていきました。5年目の頃、親方からある新築現場を一棟任せてもらい無我夢中で納めた事を思い出深く感謝しています。
私が24歳時妻雅代と結婚をし、その二年後長女が生まれたころ昭和51年4月にお世話になった松嶋左官から独立し「左官花嶋」を創業しました。当時高度成長期と言われていましたが一年間は安定して仕事は無く生活をしていくために建設会社を転々とし必死で生計を立てていく日々でした。そんなある日、知人からの紹介で面識のあった老舗の建築店から仕事の依頼があり、その後多くの方々に支えられながら夫婦で仕事を切り盛りさせていただきました。日の出と同時に軽バンに道具と材料をのせ現場へ向かい荷物を降ろし、そのまま家に戻り妻を乗せ、足らない材 料を運び、夜遅くまで仕事することが日課でした。修行時代、親方から教わった「段取り八分」の精神は今でも私の支えになってくれています。 昭和60年あたりを境に日本の建築様式も大きく変わり新建材の開発や建物の簡素化が進み手間のかかる左官工事が減少し、その結果左官花嶋の業績も悪化をしていくことになりましたがまたしてもまわりの方々に支えられ、外構工事や新たな事業に参入し今日まで廃業せず邁進できました。
左官という職業について半世紀、多くの方々にご支援、ご指導を頂きながら地道に作り上げた左官花嶋は常に感謝の気持ちを忘れず未来の左官を考えていきたいと思います。 今後ともよろしくお願い致します。
昭和37年中学を卒業後、和菓子職人の父の勧めで手に職をつける事を夢見て左官職人を目指すことになり現.中区三組町の㈲松嶋左官(松嶋彦次)の見習いとして住み込みをさせてもらいながら厳しい修行が始まりました。3年間は親方や先輩の仕事の準備、材料作りが主な仕事でした。早朝からリヤカーを自転車に連結し左官道具、材料を一杯にのせて2時間かけて現場へ向かうこともありました。今では想像のつかない時代ですがこれが当時の実状でした。もちろん電動工具は無く何をするにも人力での作業は想像を超える大変さでしたが後々良い経験をさせてもらった ことに気が付くことになりました。
弟子入りから4年目の頃親方から塗り付け鏝を一丁渡され土壁を塗るように言われその時は嬉しさの半面、緊張しながら仕事をしたことを覚えています。少しでも親方の気持ちに答えようと月に2日の休日を壁塗り練習にあて、中塗りの訓練を繰り返し精度を求めていきました。5年目の頃、親方からある新築現場を一棟任せてもらい無我夢中で納めた事を思い出深く感謝しています。
私が24歳時妻雅代と結婚をし、その二年後長女が生まれたころ昭和51年4月にお世話になった松嶋左官から独立し「左官花嶋」を創業しました。当時高度成長期と言われていましたが一年間は安定して仕事は無く生活をしていくために建設会社を転々とし必死で生計を立てていく日々でした。そんなある日、知人からの紹介で面識のあった老舗の建築店から仕事の依頼があり、その後多くの方々に支えられながら夫婦で仕事を切り盛りさせていただきました。日の出と同時に軽バンに道具と材料をのせ現場へ向かい荷物を降ろし、そのまま家に戻り妻を乗せ、足らない材 料を運び、夜遅くまで仕事することが日課でした。修行時代、親方から教わった「段取り八分」の精神は今でも私の支えになってくれています。 昭和60年あたりを境に日本の建築様式も大きく変わり新建材の開発や建物の簡素化が進み手間のかかる左官工事が減少し、その結果左官花嶋の業績も悪化をしていくことになりましたがまたしてもまわりの方々に支えられ、外構工事や新たな事業に参入し今日まで廃業せず邁進できました。
左官という職業について半世紀、多くの方々にご支援、ご指導を頂きながら地道に作り上げた左官花嶋は常に感謝の気持ちを忘れず未来の左官を考えていきたいと思います。 今後ともよろしくお願い致します。